近年、創薬や材料科学の分野で「自動化ラボ」の導入が進み、研究の効率化や高速化が大きく注目されています。その中で、理化学研究所や東京科学大学の研究者らが提案した新しい設計思想 Self‑maintainability(SeM) は、食品分野にも大きなインパクトを与える可能性があります。今回は、特に日本企業が盛んに取り組んでいる「食品研究」に焦点をあて、SeM対応ラボを想定した具体的な実験フローを紹介します。
1.SeMとは何か?
SeM(Self‑maintainability)とは、実験室自体が自分の状態を把握し、必要なケアを自律的に行う能力を指します。細胞がホメオスタシスによって内部環境を一定に保つように、ラボも自律的に試薬の残量を確認し、装置のエラーを検知・修正し、外乱に対応する――これがSeM対応ラボの中核となる考え方です。
従来の自動化ラボでは、実験操作そのものはロボットに任せることができても、試薬の補充、機器のトラブル対応、スケジュール調整といった裏方作業(研究者が「ケア」と呼ぶ部分)は人間に依存していました。SeMはこれをAIとロボットに担わせることで、完全自動化を実現しようとしています。
2.食品研究での多並列試験
日本の食品メーカーは、飲料、発酵食品、サプリメントなどの開発において「多並列試験」を日常的に行っています。例えば:
- 茶葉ブレンドの違いによる風味評価
- 乳酸菌株ごとの発酵力や機能性の比較
- 機能性成分(ポリフェノール、オリゴ糖など)の組み合わせ評価
これらは、候補数が数十~数百にも及ぶため、従来は研究者が膨大な繰り返し作業を行ってきました。ここにSeM対応ラボを導入すると、劇的に効率化されます。
3.想定される実験フロー(例:乳酸菌株のスクリーニング)
ここでは、乳酸菌株のスクリーニング実験を想定したSeM対応ラボのフローを紹介します。
(1)研究者による要求入力
研究者はチャットUIに次のように入力します:
「100株の乳酸菌について、培養後の酸生成量と抗酸化活性を評価したい」
(2)要件管理モジュールがタスクを分解
AIが入力を解析し、以下のプロセスに分解します:
・必要な試薬と消耗品をリスト化
・培養条件(培地、温度、酸素濃度)を自動設定
・評価項目(酸生成量、抗酸化活性)を実験プロトコルに変換
(3)資源管理モジュールによる準備
・試薬や培地の残量をセンサーと在庫データから確認
・不足があれば自動的に研究者へ補充依頼、またはロボットで調製
・プレートやチューブの在庫を確保
(4)機器管理モジュールによる自律制御
・ロボットが培地を分注し、乳酸菌をそれぞれのウェルに播種
・培養器の座標ズレや温度変動を検知し、必要に応じて補正
・測定装置に自動搬送して評価実験を実施
(5)中央制御AIによる統合
・各モジュールのデータを統合し、予定外の事態(例:一部の株が生育しない)に応じてスケジュールを自動調整
・測定が完了したデータを解析し、ランキング形式でレポートを生成
(6)研究者へのアウトプット
最終的に研究者は次のようなレポートを受け取ります:
・酸生成量が上位10株のリスト
・抗酸化活性スコアとの相関解析
・次ステップ(動物試験や臨床試験)に進めるべき候補株の提案
この一連のプロセスにおいて、研究者は「ケア」作業に関与せず、実験設計と最終判断に集中できます。
4.SeMラボがもたらす食品研究のメリット
・作業負担の大幅軽減:膨大な繰り返し作業をロボットが担い、研究者は分析・戦略立案に専念できます。
・探索範囲の拡大:数百~数千条件の並列試験も現実的になり、新しい機能性成分や菌株の発見が加速します。
・品質と再現性の向上:ロボットによる標準化された操作で、データのばらつきが減少します。
・スピードアップ:本来数カ月かかるスクリーニングが数週間に短縮可能です。
5.将来展望
SeM対応ラボは、食品研究を単なる「製品開発」から「知識発見」へと進化させる可能性を秘めています。例えば:
・機能性食品成分の組み合わせ効果をAIが発見
・日本各地の発酵食品に含まれる未利用菌株を高速スクリーニング
・消費者の健康データと連携したパーソナライズド食品開発
これらは、食品業界における競争力を大きく変える要素となるでしょう。
6.まとめ
「Self‑maintainability(SeM)」という新しい設計思想は、食品研究においても極めて有効です。多並列試験が中心となる食品開発の現場では、SeM対応ラボが導入されることで、研究者は煩雑な作業から解放され、より創造的で戦略的な研究活動に集中できるようになります。これにより、健康寿命の延伸や新しい食文化の創出に向けたイノベーションが加速するでしょう。
出典:Digital Discovery, Automating care by self-maintainability for full laboratory automation (2025)
https://doi.org/10.1039/D5DD00151J